家族、友人、恋人、同僚、上司。私たち人間は生まれた時から必ず誰かが傍にいて、そして死ぬまで他者との関わりあいの中で生きていく。個人主義の傾向が強い欧米の文化に比べると、特に日本においては、集団における和が重んじられる文化が強く根付いている。
私自身も大学時代に北欧のデンマークに留学し、一度祖国を離れたことで、日本の文化の特異性が身に染みて感じられた。
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人の目を気にしないヨーロッパの文化
ヨーロッパでは基本的に「自分がどうしたいのか」「自分はどう考えるのか」といった個人の軸が重んじられる。だから、自分がそれで良いと思ったなら、周りのことはあんまり気にしない。
良い意味でも、悪い意味でも、自分が一番大事。
例えばファッションにおいて、日本ではテレビや雑誌が毎シーズン流行っているものを取り上げたりして、「皆が着ているから私も着る」「流行りに乗らなきゃいけない」という考えに無意識的に至っていないだろうか?
私がヨーロッパ、特に個人主義の傾向が非常に強い北欧に一年住んでみて感じたのは、日本にいる時ほど流行がそこまで感じられなかったし、自分も周りも、誰が何を着ていようがあんまり気にしていない。
逆に少し変わったファッションをしている方が「個性がある=自分を持っている」という良い印象を持たれやすかった。
また、公園なんかでは普通に芝生で昼寝をしていたり、カップルも街中で普通にキスをしていたり。見ていて不快になる程度だと流石に嫌気がさしちゃうけれど、基本的に「気にしない、気にならない」。
「和」を重んじる文化は、「個」を押し潰してしまう側面も持ちうる
留学を終えて日本に帰国し、久しぶりの日本食や温泉にホッとしたのは束の間、逆カルチャーショックに陥った。
普通は自分が生まれた国に帰ったら、やっぱりこの生活が良いと思うはずだけれど、日本特有の「周りの目」を気にしすぎる文化がすごく窮屈で、大学やアルバイト先、電車の中、様々なところで息苦しさを感じた。
言いたいことを我慢しなくちゃいけない。好きな服が少し周りと違っている「少し変わっている人」。周りが就活を始めたけれど、自分はあまりその頃就活に意味を見いだせなくて、何もしないでいたら私よりも周りが心配する。
私の人生なのに、どうして他人に私の生き方を口出しされて、他の人生と比べられているのだろう、とふと思った。
真ん中が求められる日本社会、でも人の「平均」って本当に存在する?
要は、やっぱり日本にいると「出た杭は打たれる」場面に遭遇することが多い。
考えてみれば小学校の集団生活からそういう意識が、じわりじわりと私たちの頭の中に刷り込まれてきたからなのかもしれない。
能力も、個性も、平均的にならされて、みんなが同じくらいのレベルで仲良く手を繋いでいられる、そんな意識。
これって一見美しい文化に思えるけれど、例えばもっと成長できる伸びしろがある人はその成長のチャンスを失ってしまうし、逆に自分のペースでやればできる人が、周りのペースに急いで合わせなくちゃならない。数字的に平均を出すのは簡単だけれど、実際にはその平均ってあってないようなもので、私たちはその見えないボーダーに悩まされる。
男と女の区切りを考えてみる。生物学的に男と女を区切ったとしても、男と女の両方の生殖器を持った人はどっちに分類されるの?心と身体の性別が違っている人はどっち?のように…はっきりとした「真ん中」って実は存在しない。
皆違った境遇で育ってきて、価値観も皆違う。あなたの生き方は他の人の生き方と比べられるものではないし、周りの生き方に合わせる必要は無い。
集団に属することは、服の系統を定めるのと同じ
あなたは服をどんな基準で選んでいるだろうか?
私は以前雑誌を見て、「清楚系」「ロック系」「古着系」「モード系」といった系統にはまったファッションを楽しんでいたと思う。
しかし、そういう服が展開されているお店にいって服を買うのだけれど、毎シーズン同じようなデザインの服ばかりが店頭に並び、そのバリエーションに飽きて、様々な服の系統を行き来してきた。
でも、ある日ふと思った、「系統に嵌った服は、自分のスタイルでは無いなぁ」と。
それまでは、服のジャンルの中に私が収まっていたのだけれど、その日を境に、自分が様々なジャンルの服から好きなものを選んで着るようになった。ブランド、ノーブランド、新品、古着、そういう括りも全部捨てた。
そしたら、自分が本当に気に入ったアイテムだけを買うようになったし、そういう服たちに飽きることが無くなった。もう数年前からクローゼットの中身はほとんど変わっていないし、今持っている服たちはこれからもずっと着ていきたいと今は思える。
服を自由に選ぶように、色んなコミュニティを選ぶ
共同体に属していると、絆とか結束感とか、自分はそんなに求めてないのに、集団に貢献しなきゃいけないことが段々大きくなって、精神的な負担も大きくなる。コミュニティに関わっていくにつれて、自分を犠牲にしているような気がしてくる。
でも、集団に属さないで生きていけるか、と言われるとそれはそれで大変。人間本当に独りで生きている人は、いないと思う。集団に関わることで得られるメリットもあるし、人の出逢いはこれまでの数々の出会いからもたらされるから、人と交流することはやはり必要だ。
コミュニティ選びは、服選びと一緒。
特定の系統を定めてしまうように、一つのコミュニティにどっぷり嵌ってしまうと、負のループに陥る。代り映えしないメンバー、安堵感はあるけれど新しい出逢いは少なくなる。
集団への自分の貢献度がどんどん大きくなって、共同体の距離感が分からなくなり、居心地が悪くなる。
でも、服を様々な系統から選ぶように、複数のコミュニティを跨いでみたらどうだろう?
出逢いは広がっていくし、自分は集団に属してはいるんだけれど、行動がコミュニティ主体にならなくていい。
コミュニティにとってではなく、自分にとって今何が一番最適か?と、自分を客観視する余裕が生まれる。
集団に息苦しくなってしまう人は、まず自分軸を持つ
だから、コミュニティに属しているという認識の見方を少し変えてみると良い。
ついつい会社にいると、会社というコミュニティの円内に自分が立っていると思いがちだ。
でも、実は会社、友人、家族、サークル、様々な円が社会には存在していて、自分はその複数の円の重なり部分に立っているに過ぎないのだ。一つの円を中心に捉えるのではなくて、自分を中心に複数の円が周りを取り囲んでいるという見方に変えてみる。
そうすると、自分が立っている場所というのは唯一無二の場所だし、そこに立っているのは自分一人。
一人でいることは最初は怖いかもしれないけれど、一人でいることによって各々のコミュニティとの適切な距離というのが分かってくる。
一つの円にいることに疲れたら、他の円に移動することもできる。自分が中心にいるから、自分軸で物事を考えられるし、自分の目的を優先させられる余裕が生まれる。
円と自分との距離に見合わない要件は断ろう、行きたくない飲み会は行かなくていい。
あなたは世界の中心にいる。「あなたの心が今したいこと」に素直に従ってみよう。